いろんな写真を見ていると自分の好みが分かったり、また、自分の生活や環境とともに好みが変化していくのが分かります。(それも面白いところ。)蘇るように現れる感覚のひとつに、煮詰まった鍋の底にある焦げカスのようなものに人間性を感じて惹かれます。例えば展示という晴れ舞台でもアナログプリントの隠すようなゴミ焼きを見つけると、そこに見え隠れする感情を通らずにはいられません。それらは敵わない強さがあるのではないでしょうか。
【御苗場vol.16 横浜】 勝手にレビュワー賞 ノミネート(3.1日目) 003 工藤 拓
アナログプリントのゴミ焼きが良いされていません。本来ないはずの糸のほつれを偶然見つけてしまった時、立場が違っても共に同じ人間なんだと安心したり、応援の気持ちがうまれます。一方、あまりにひどい時は憤ります。(時間がなくてという言い訳は聞きたくないですよね。)003 工藤さんの作品は不器用ながら、全力で自分をさらけ出している表現としてブースの前に立ち尽くしました。
写真撮影・掲載許可もらっています
ノミネート理由1:実直さと気迫が伝わる
例え話ですが、カメラを上手に使えていないことに純粋さを感じることがあると思います。例えばピントが少しずれているとか、傾いているような写真に惹かれるというものです。たくさん写真を見ていると表現とは技術ではなく、最終的にはどれだけ燃やすことが出来たかであって、例えば荒木 経惟に代表されます。圧倒的な熱量を前にすると、技術とか機材とかちっぽけなものに思えてきます。
荒木さんはかつて何かにつけ批判されていた時期がありました。それに似たもので、高校生を撮影対象にしている工藤さんは選び方がうまいとか、ズルいと言われるかもしれません。でもそれは単なる外野の嫉妬でしょう。
御苗場会場は見せるために、額にこだわったり、写真を立体的な構造にしたりしてるものを見かけます。これが悪いわけでなく、先に挙げたテクニックと熱量の関係性に重なって、仕組みや構造でなく写真そのもので勝負してやろう!と正面からむかっている気迫がブース全体から伝わってきます。
勝手な推測ですが、工藤さんの撮り方はこのまま突き進めばよくて、今後デザインや編集を学ぶとスマートな作品に仕上がると想像しますが、それを見てみたい気持ちとカドがなくなった作品は寂しいなと想像します。これからどのように成長・派生していくのか期待したいところです。そういった期待は見る側であるぼくが作品の中に囲まれている証拠と言えます。
ノミネート理由2:飾らないポートレートである
ぼくは風景写真を専門としていますが、WEBサイト掲載用・ファミリー撮影など商業的なポートレート撮影も通常業務として行っています。そこで常々感じていることですが、中途半端な細工をするくらいなら素のままのほうがいい結果につながるということです。その多くは衣装やメイク、シチュエーションなのですが、そのあたりは見る側であるぼくの感覚と近いものがあって作品の中に入っていけるのだと思います。(機材がどうのとかいうポートレート写真は作例展に見えてしまいます。)
ノミネート理由3:関係性を想像する
【よくある相談 vol.1】 作品テーマを探しています に書いたことなのですが、なぜそれを撮っているのかという質問に対して、作者と作品の親和性やリファレンスとなるものが制作における説得力ではないかと考えています。ポートレートの分野でモデルに依存しているものに関係を感じません。工藤さんがどのような道筋で高校生を撮影されているのか分かりませんが、圧倒的な量を前に関係性を知りたくなるのも今回展示の魅力と言えます。
関係性で思い出すのが、昨年のポートレート専科、常盤 響さんです。残念ながらその内容を紹介する術を持ってませんが、写っているのは過去にあった事実であり常盤さんは写っていない当事者でした。作品と親和性があるものは事実を抱えている本人であり、作品が持つ厚みになっていきます。
止めどなく流れ続ける水のようなもの受け口にあったのが、写真であって御苗場であったと感じてます。